夏の平安神宮と神苑
六道参りの前に岡崎の方へ寄る所があったので、ついでに平安神宮を参拝してきた。
何回も行っている所ではあるのだが、社殿に参拝するのは久し振りである。
京都会館が改築されて「ロームシアター京都」となったあたりからこの辺一帯も整備されている。
現在、京都市立美術館が改築中だから、これが完成すれば新たな名所になるだろう。
【平安神宮の入り口になる應天門(重要文化財)】
【社殿の東側の蒼龍楼・東歩廊(重要文化財)】
【神苑の中の栖鳳池と泰平閣】
【泰平閣から見た栖鳳池】
【神苑の花:オミナエシ】
【神苑の花:スイレン】
【京都・時代祭館十二十二(トニトニ)】
平安神宮の西隣に「京都・時代祭館十二十二(トニトニ)」という商業文化施設ができていた。
時代祭りが十月二十二日に行われることから「トニトニ」と名付けられてるそうだ。
時間が無かったので中を詳しく見られなかったが、飲食店や土産物店が多数入っている。
時代祭りをテーマにした施設との事。
建物の隣が観光バスの駐車場になっているから、観光客が目当ての施設の感じがする。
御香宮神社の夏越の祓いと茅の輪くぐり
7月も今日で終わり。明日から真夏の8月。
台風12号が去った後またまた猛暑日が復活した!
京都では7がつに35度以上の猛暑日が16日あったそうだ。
観測史上初めての事だという。
そんな猛暑が続く京都の7月31日は伏見の御香宮神社の夏越の祓いの神事と
茅の輪くぐりが行われた。
多くの神社では夏越の祓いは6月30日に行われるのだが、
祇園の八坂神社と御香宮神社は一か月遅れの7月に「行われる。
暑さのピークの午後4時頃に茅の輪くぐりのお参りに行ってきた。
この茅の輪くぐりは午後3時からの夏越の祓いの神事が終わってからでないとでき無いので
一番暑い時間帯だがこの時間に参拝してきた。暑さのせいなのだろうお参りの人は少なかった。
祇園祭の後祭の山鉾巡行
梅雨明け以降猛暑日が連続する京都市内。14日連続の猛暑日は気象観測を開始して以降はじめての事らしい。
そんな暑い一日の7月24日に所用があって四条烏丸まで出かけた。
用件が終わって地下鉄に乗るべく交差点まで来たら丁度後祭の山鉾巡行が通りかかった。
まだ祇園祭が17日の一回だけの折に山鉾巡行は何回か見てはいた。
暑いし、人出も多いし写真撮るのも一苦労していた。
前後に分かれた後祭を見るのは初めてだ。
京都の猛暑のためか、或いは後祭が小規模という事でもあってか、見ている人は少な目。
結構ゆっくりとみることができ、写真も楽に撮ることができた。
暑い最中の祭り見物。年寄りにはこのくらいの規模が丁度いいのかもしれない。
【 南 観 音 山 】
【 大 船 鉾 】
【 鯉 山 】
【 後祭山鉾巡行の後半部分 】
淀城跡の周辺をめぐる(2)鳥羽伏見の戦いの戦士の碑を訪ねる〜
「千両松激戦地の碑」から再び京阪淀駅まで戻り、周辺の寺院に東軍の戦死者が埋葬されたと言われる寺院を訪ねる。
淀城周辺の激戦区では多くの戦士が亡くなっているが、
新政府軍の戦死者は手厚く葬られているが、
賊軍である幕府軍の戦死者は賊軍という事で埋葬は許可されず野ざらしになっていたという。
所が、徳川幕府の親藩であった淀藩の住民は幕府側の戦死者の遺骸が野ざらしになっているのを見るに忍びづ、地元の住民や寺が宗派を超えて葬ったという。
【淀城周辺の地図】丸数字順に歩きました
千両松激戦地跡から淀競馬場へ
向かい側の淀競馬場へは千両松の碑から少し淀駅側に戻れば競馬場へ通じる地下道があり、
そこを通って競馬場入り口に向かう。
この地下道は競馬場と駐車場への連絡通路でもある。
【光 明 寺(浄土宗)】
【京都市立明親小学校旧藩校「明新館跡」】
旧淀藩の藩校「明新館」となっていた所」
幕府軍の戦士が幕府側と思っていた淀城への入場を断られ、ここを幕府軍の本陣とし
幕府軍の宿舎としていた所。
その後明治天皇がここを訪れている。
【長円寺(浄土宗)】
旧幕府軍の野戦病院でもあった寺院。
【この他の死者埋骨墓石や碑がある寺院】
*東運寺(曹洞宗)
* 大専寺(真宗大谷派)
* 文相寺(浄土真宗本願寺派)
淀城跡ー鳥羽伏見の戦い(1)
*t*[京都][社寺][旅]淀城跡の周辺をめぐる(1)鳥羽伏見の淀の戦跡を探す〜
5月26日(土)にカルチャー教室の企画行事で淀小周辺を歩くというのがあったので参加した。
大阪方面へ出る時は大抵京阪電車を利用するから淀駅の近くに淀城跡の石垣のあるのは電車の窓から良く見えるので知ってはいた。
しかし、この辺りを歩いたことはない。
【京阪淀駅】
鳥羽伏見の戦いは慶応4年の1月に開戦された。
淀城はじめその周辺も激戦の地となり、多くの死傷者を出したそうだ。
それらの石碑が多く残っている。
【石垣のみが残った淀城跡】
秀吉が茶々の為に細川氏が築城した淀城を改修した城の位置は今より北の方にあったそうだ。
江戸時代の淀城は大名家の居城であった。2代将軍秀忠が伏見城を廃城とし淀のちに築城したもの。
幕末の頃の淀藩は親藩であり幕府側であるはずだった。
所が藩主が老中として江戸詰めになっている間に家老が寝返り、
戦いに敗れた幕府軍の兵士が淀城に入城するのを拒み、多数の死傷者を出す結果となった。
【明治天皇御駐蹕之址】
慶応4年3月明治天皇は新政府軍の海軍視察の時淀城で休息、宿泊された。
【千両松激戦地跡。新選組井上源三郎の戦死地】
八番楳木戦跡碑のある所は淀城跡から東に向かって競馬場に沿って歩いて20分くらいの所にある。
土方歳三率いる新選組と佐川官兵衛率いる会津藩が、新政府軍激戦を繰り広げた地。
多くの戦死者が出た地でもあり幕府軍の遺骨が埋められている。
(碑文)
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない
それが日本人同族の争でもあり いづれもが
正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己
等の誠を尽くした 然るに流れ行く一瞬の時差
により 或る者は官軍となり 或るは幕軍と
なって 士道に殉じたので有ります こゝに
百年の歳月を閉じ 其の縁り有る 此の地に
不幸賊名に斃れたる 誇りある人々に対し慰
霊碑の建つるを見る 在天の魂以て冥ずべし
中村勝五郎
識す
昭和四十五年春