どうという事もない日々の記録

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淀城跡ー鳥羽伏見の戦い(1)

*t*[京都][社寺][旅]淀城跡の周辺をめぐる(1)鳥羽伏見の淀の戦跡を探す〜
5月26日(土)にカルチャー教室の企画行事で淀小周辺を歩くというのがあったので参加した。
大阪方面へ出る時は大抵京阪電車を利用するから淀駅の近くに淀城跡の石垣のあるのは電車の窓から良く見えるので知ってはいた。
しかし、この辺りを歩いたことはない。







【京阪淀駅





鳥羽伏見の戦いは慶応4年の1月に開戦された。
淀城はじめその周辺も激戦の地となり、多くの死傷者を出したそうだ。
それらの石碑が多く残っている。



【石垣のみが残った淀城跡】
秀吉が茶々の為に細川氏が築城した淀城を改修した城の位置は今より北の方にあったそうだ。
江戸時代の淀城は大名家の居城であった。2代将軍秀忠が伏見城を廃城とし淀のちに築城したもの。
幕末の頃の淀藩は親藩であり幕府側であるはずだった。
所が藩主が老中として江戸詰めになっている間に家老が寝返り、
戦いに敗れた幕府軍の兵士が淀城に入城するのを拒み、多数の死傷者を出す結果となった。













明治天皇御駐蹕之址】

慶応4年3月明治天皇は新政府軍の海軍視察の時淀城で休息、宿泊された。




【千両松激戦地跡。新選組井上源三郎の戦死地】
八番楳木戦跡碑のある所は淀城跡から東に向かって競馬場に沿って歩いて20分くらいの所にある。
土方歳三率いる新選組佐川官兵衛率いる会津藩が、新政府軍激戦を繰り広げた地。
多くの戦死者が出た地でもあり幕府軍の遺骨が埋められている。






(碑文)
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない 
それが日本人同族の争でもあり いづれもが 
正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己
等の誠を尽くした 然るに流れ行く一瞬の時差
により 或る者は官軍となり 或るは幕軍と
なって 士道に殉じたので有ります こゝに 
百年の歳月を閉じ 其の縁り有る 此の地に
不幸賊名に斃れたる 誇りある人々に対し慰
霊碑の建つるを見る 在天の魂以て冥ずべし

              中村勝五郎  
                  識す  
昭和四十五年春