淀城跡の周辺をめぐる(2)鳥羽伏見の戦いの戦士の碑を訪ねる〜
「千両松激戦地の碑」から再び京阪淀駅まで戻り、周辺の寺院に東軍の戦死者が埋葬されたと言われる寺院を訪ねる。
淀城周辺の激戦区では多くの戦士が亡くなっているが、
新政府軍の戦死者は手厚く葬られているが、
賊軍である幕府軍の戦死者は賊軍という事で埋葬は許可されず野ざらしになっていたという。
所が、徳川幕府の親藩であった淀藩の住民は幕府側の戦死者の遺骸が野ざらしになっているのを見るに忍びづ、地元の住民や寺が宗派を超えて葬ったという。
【淀城周辺の地図】丸数字順に歩きました
千両松激戦地跡から淀競馬場へ
向かい側の淀競馬場へは千両松の碑から少し淀駅側に戻れば競馬場へ通じる地下道があり、
そこを通って競馬場入り口に向かう。
この地下道は競馬場と駐車場への連絡通路でもある。
【光 明 寺(浄土宗)】
【京都市立明親小学校旧藩校「明新館跡」】
旧淀藩の藩校「明新館」となっていた所」
幕府軍の戦士が幕府側と思っていた淀城への入場を断られ、ここを幕府軍の本陣とし
幕府軍の宿舎としていた所。
その後明治天皇がここを訪れている。
【長円寺(浄土宗)】
旧幕府軍の野戦病院でもあった寺院。
【この他の死者埋骨墓石や碑がある寺院】
*東運寺(曹洞宗)
* 大専寺(真宗大谷派)
* 文相寺(浄土真宗本願寺派)
淀城跡ー鳥羽伏見の戦い(1)
*t*[京都][社寺][旅]淀城跡の周辺をめぐる(1)鳥羽伏見の淀の戦跡を探す〜
5月26日(土)にカルチャー教室の企画行事で淀小周辺を歩くというのがあったので参加した。
大阪方面へ出る時は大抵京阪電車を利用するから淀駅の近くに淀城跡の石垣のあるのは電車の窓から良く見えるので知ってはいた。
しかし、この辺りを歩いたことはない。
【京阪淀駅】
鳥羽伏見の戦いは慶応4年の1月に開戦された。
淀城はじめその周辺も激戦の地となり、多くの死傷者を出したそうだ。
それらの石碑が多く残っている。
【石垣のみが残った淀城跡】
秀吉が茶々の為に細川氏が築城した淀城を改修した城の位置は今より北の方にあったそうだ。
江戸時代の淀城は大名家の居城であった。2代将軍秀忠が伏見城を廃城とし淀のちに築城したもの。
幕末の頃の淀藩は親藩であり幕府側であるはずだった。
所が藩主が老中として江戸詰めになっている間に家老が寝返り、
戦いに敗れた幕府軍の兵士が淀城に入城するのを拒み、多数の死傷者を出す結果となった。
【明治天皇御駐蹕之址】
慶応4年3月明治天皇は新政府軍の海軍視察の時淀城で休息、宿泊された。
【千両松激戦地跡。新選組井上源三郎の戦死地】
八番楳木戦跡碑のある所は淀城跡から東に向かって競馬場に沿って歩いて20分くらいの所にある。
土方歳三率いる新選組と佐川官兵衛率いる会津藩が、新政府軍激戦を繰り広げた地。
多くの戦死者が出た地でもあり幕府軍の遺骨が埋められている。
(碑文)
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない
それが日本人同族の争でもあり いづれもが
正しいと信じたるまゝにそれぞれの道へと己
等の誠を尽くした 然るに流れ行く一瞬の時差
により 或る者は官軍となり 或るは幕軍と
なって 士道に殉じたので有ります こゝに
百年の歳月を閉じ 其の縁り有る 此の地に
不幸賊名に斃れたる 誇りある人々に対し慰
霊碑の建つるを見る 在天の魂以て冥ずべし
中村勝五郎
識す
昭和四十五年春
明治維新の原点を探る旅(2)
【第二日:3月27日(火)】[その1]
宿泊した温泉宿は松陰神社から歩いて15分程度の小高い所にある温泉宿「萩本陣」。
我々のグループの旅の楽しみは温泉と夜の酒盛り。これは欠かすことはできない。
旅のテーマか温泉と夜の飲み会かどっちがメインかは難しい所だ。
【萩本陣の正面玄関と夜の料理の一部】
萩市内の史跡巡りは100円循環バスを利用した。ホテル前の坂を下ったところにバス停がある。
先ず出発点は史跡めぐりの知識と資料を求めるために「萩・明倫学舎」を訪れた。
【萩・明倫学舎の外観】
「萩藩校明倫館」跡地に建てられたのが日本最大の木造校舎「旧明倫小学校」である。
ここが萩市の観光拠点となる「萩・明倫学舎」となった。
【萩・明倫学舎の内部】
【萩・明倫学舎の展示室の一部】
学舎内はインフォーメーションセンターや土産物ショップなどがあるが
二階は有料(大人300円)ではあるが幕末から明治維新に関わるミュージアムとなっていて
各種の展示が公開されている。